米国大陸横断記

1. 大陸横断の旅立ち

米国大陸横断記1年半の留学期間も終え私達も帰国せねばならなくなった。留学も最初は2年の予定であったが、本国の麻酔科の医局が大変なので、教授から是非帰って来てくれと言われ、帰らざるを得なかった。3週間の横断予定で、6月下旬に出発して2週間で横断をして7月上旬にLosAngelesの友達の所に着き、そこで約一週間滞在して自動車を売却してSanFranciscoから帰国する計画を立てた。帰りの飛行機の切符も購入済みで、1日たりとも無駄には出来なかった。この辺で一泊、あそこで一泊と正確を期したplanであった。

Harvard大学日本文学講師板坂元先生がorganizeしている少し安い留学生団体機にのるために、やむをえなかった。今思えば少しぐらい高い飛行機でよいから1ヶ月位延ばしてゆっくり旅をすればよかったと思った。出発に先立ちアメリカのdoctorから横断中に破傷風に気をつけるように又原住民との間でtroubleを起こさない様にと言われた。1967年当時でもアメリカはこのような状態であったのだ。

米国大陸横断記大まかにいうとNewYorkを南下して、WestVirginiaのMorgantownで東大第一生理学教室の入内島十郎先生の家に寄り、Hotelで1泊して、アメリカ東部第2の都市Chicagoを経て、北上してWisconsinから西方に向い、岡本先生からBadlandsが良いといわれていたので、そこを見て、ジャガイモで有名なIdahoを通り、南下して、Colorado、Denverに留学している大学時代同級の奥村先生を訪問してから、是非見たいと思ったのが、Yellowstone、GrandCanyon、LasVegasと死の谷であった。途中何回も車中泊を重ねて、最後はLosAngelsの若林先生の家に泊めて貰い、DisneyLandを見た後、自動車を売り払ってSanFranciscoから帰国の予定であった。caravan宜しく、体調も万全で、VannestApartment在住の留学生達は皆見送って下さった。別れを惜しみ、後ろ髪を引かれる思いで7月の下旬に出発した。そのときの写真が冒頭の写真である。1年半という短い期間であったが、沢山の経験と見知らぬ国、魅力溢れるアメリカで生活出来た事に感謝をして、なつかしのBronxを後にして一路、NewJerseyのTurnpike(Turnpikeとは有料道路のことで、1-2ドルぐらいであったと記憶している)に向けてdriveした。NewJerseyTurnpikeはやがてPennsylvaniaTurnpikeになり、最後はOhioTurnpikeになる。

米国大陸横断記随分遅く8時半頃であったろうか、WestVirginia、Morgantownの入内島十郎先生の家に着いた(東大医学部第一生理学教室助手、助教授を経て広島大学医学部生理学教室教授、同大名誉教授)。遅く着いたので息子さんが眠くてむずかり申し訳なかった。夕食まで待っててもらい夕食をご馳走になった。翌日は近くのガラス工場を見学後、WestVirginia大学の生理学教室の教授にご挨拶と見学をした。米国大陸横断記学生には自分の好きなテーマについて研究出来る時間を与えていると言われていた。日本で一緒の研究室で学んだ畏友とこうして、異国で一緒になれる喜びを味わった。ホテルで1泊して翌日一路Pennsylvania、Pittsburgh、Clevelandを経て自動車のメッカDetroitに向けて走った。Pittsburghは大阪市大麻酔科の藤森貢先生が学んでいた処、何しおう、米国の有数な鉄鋼業地帯で、煙はモクモクたなびき、当時はその活力を示していた時代であった。Erie湖畔のClevelandを経て、Detroit、DearbornのBali-HiMotelに泊まった。今Googleでその場所を調べると、WaterWorksParkの近くで所謂waterfrontである。壁面に奇妙な黒人人形が壁に飾ってあり、面白いので、女房を立たして写真を撮った。

翌日はFordの本社に行った。アメリカの自動車会社のautomationと言うのを見たかったのである。私が知っているのはChaplinのautomation位な物であった。本社の入り口で、今、米国の留学を終り、帰国の途上であるが、見学に来た旨告げたら、美人秘書に丁重に案内された。食事はまだか、どうか尋ねられたので、「未だです」と答えたら、食堂に連れていかれ、whitecolorの人達の食堂に招かれた。国会みたいな赤い絨毯を歩んで食堂の中に入り、buffetstyleなので好きなものを取って食べた。見ず知らずの東洋の乞食みたいな恰好をした一家族を汚らしいと思わずに、食堂に案内する様に感激した。こういう会社はきっと将来世界一流になると思っていた。最近日経新聞の私の履歴書に書いている行天さんの中に1960年代のアメリカは顧客というのをこういう形でとても大切にしていたと述べて居た。こういう会社は将来世界的に大きくなると思って居たら、矢張りその後世界一になった。米国大陸横断記Automationで機械的に自動車が作られて行く様を見て、すごいと思った。カナダの万博で見た日本から出展した自動車一台の貧しい展示には悲しい思いがした。キャローラが1台、日本でも自動車が造れるのだぞと言わんばかりに石垣状の台座にぽっつんと置いてあるだけであった。万博というのは、その国を代表する物産展と勘違いをしたに違いない。当時の日本は食うや食わずでその程度であったのだ。

米国大陸横断記後年Fordの会長を勤められたLeeIacoccaの伝記が出版された時、読後感激して手紙を書いて出したら丁重な返事を頂いた。Iacoccaは1967年当時副社長であったに違いない(1970年Ford社長、1978年Chrysler社長、会長)。Ford見学後DetroitのDearbornを後にした。Detroitは日本の私の恩師日本大学医学部麻酔科学講座の山本亨教授が留学して学んでいた処である。山本教授はHenryFordHospitalで麻酔のresidentを修練した。帰国後ここを通ったことを報告するととても喜ばれた。

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