憲法9条を考える

ブロンクスの青春物語 Albert Einstein College of Medicine 留学記
(2007年7月初版)
(2008年2月改定)

1. 始めに

ブロンクス、何と響きの良い上品な言葉であろう。ブロンクスはマンハッタンの北東コネチカット寄りに隣接した、マンハッタンの中心CentralParkから約10km離れた地区で、東京で言えば杉並区と世田谷区を合わせたぐらいの面積で郊外らしい佇まいを見せた住宅地である。ここに私は1996年1月より1997年7月まで留学の為に住んでいた。これはその時の物語である。

2. 日本出発

歓呼の声に送られて羽田の飛行場を出発したのは正月も行はない1966年1月2日であった。ブロンクスの青春物語当時私は日本大学医学部麻酔学教室専任講師の籍に有り、東大から日大に移ってから1年半位の短さであったが、突如外国に留学できるチャンスと旅費を出してくださる人が居た事,又当時の私の上司である山本教授のお許しがあったからであった。当時の日大の助教授・講師会の会長であった星野孝整形外科助教授(後獨協医科大学整形外科主任教授)が助教授・講師会を代表して見送りに来てくださった。それ以外に母・妻・子供・兄弟・姉妹等が見送りに来て下さり、出征兵士の様であった。
8時間はかかるアンカレッジに漸く着いて、へとへととなり、ウドンか何かを食べて再び機上の人になり真夜中の北極を又10時間かかってヨーロッパに着いた。私達は欧州経由でアメリカに行ったのであった。当時、日本からはロシアの真上を通過する事は出来ず、皆アンカレッジ・北極経由で欧州に行ったのであった。デンマークのコーベンハーゲン、独逸のハンブルグ、イギリスのロンドン、フランスのパリ、スイスのジュネーブ、イタリアのローマと約1週間の短期間ではあったが、各国の首都を見物して、ローマより今回の留学先米国NewYorkに向かった。

3. アメリカ上陸(1966年1月16日)

1966年1月2日日本を出発してアンカレジ経由北極を通って10日間の駆け足ヨーロッパ旅行をした後、ローマよりTWAに乗っていよいよ未だ見ぬアメリカに向かった。40度の角度でローマを離陸したTWAは8時間の大西洋の雲上を唸りながら飛んで、もうそろそろアメリカであろうと思わしき時、眼下を見下ろすと、山と家がちらほら見えて来た。アメリカとはどんな国であろうか。高度も8000メートル以下に落ちてきた。今はMaine州かBostonの付近であろうか。じっと下を見てアメリカの家はどんなに大きいのであろうかと自動車のgarageのsizeからその家の大きさを推測して見た。大体推測できた。高度は急に5000メートル以下になり、NewYorkに近づいたことがわかった。急に高度は2000メートル以下になり、大旋回をして着陸態勢に入った。窓から覗くわけにはいかないが、翼が30度右にかしいだと思うと、今度は左に30度かしぎ、その度に地平線の見えない果てし無い大飛行場が見え隠れして、羽田飛行場と比べて何と大きな飛行場なのであろうかと、びっくりした。漸く無事着陸して、連れと別れて、ニューヨーク生活の第一歩が始まった

(1966年1月16日米国上陸)。前もって連絡してあった丘やす先生(当時AECOMの麻酔科Associate、後同大麻酔科助教授、教授、同名誉教授)に電話で連絡を取って迎えに来てもらう事になっていた。当時は税関で持参の胸のレントゲン写真を見せる事が入国の規則になっていた。税関管理人が素人なのに首をかしげて医者のような振りをして、肺結核でないことの検査を済ませた。丘先生に電話をしようとしたが、どうやってコインを電話ボックスに入れて良いかわからず困った。係りの人に聞いたが、そこに入れればよいといっているのだが、日本みたいに横目のスリットがなく、丸の凹みがあり、25、10、5と書いてあり、どうやってコインを投入するのかわからなかった。人がやるのを見て、平たく入れて落とすのだなと思い、郊外だから25セントの所に先ずいれた。約一週間のヨーロッパ旅行で磨いた英語も通じない処が無い位に上達したので、英語でぺらぺらと今到着しました。何処そこで待っているからと言ったけれども、段々話が複雑になって来て、先方から、日本語で話しましょうといって、漸くお迎えの車の件は落着した。ただJohnFKennedy空港と市内のラグアーディア空港のどちらで降りたのかは念を押されてきかれた。ラグアーディア空港は先年のLaGuardiaNewYork市長の名を付けて造られたQueens地区にある飛行場である。東京の成田国際飛行場と羽田飛行場みたいな位置関係である。いずれにせよアメリカ上陸第1歩で1週間の英語の実地練習は無残に打ち砕かれた。ブロンクスの青春物語

これで、電話の件といい、お迎えの件といい全く英語に自信をなくしてしまった。
あの広い飛行場の何処で待ち合わせたのか忘れたが、無事丘先生のご主人、ドクター丘(当時AECOMの病理学助教授、後同大病理学教授、同名誉教授)が自動車で迎えに来てくださり漸くほっとした。初対面であったが親切に迎えに来てくれた事は今でも大変有り難い事と思っている。

第1印象は道路の標識がはっきりしている事であった。一つの出口に2回に亘り出口表示が表示されて、その文字の大きさは時速100kmで充分読める大きさになっており、さすがアメリカは科学的な国だと思った。ここが2年前世界博が行なわれた処ですと説明をして下さった。進行左手に破れた地球儀が傾いてその残骸を見せていたが、世界博覧会などみたこともない私はただただうなずくだけであった。今思えばBrooklynのFlushingMeadowで、現在はテニススタヂアムのある所である。飛行機が飛べば音が煩くて、テニスが中断される、あの場所である。段々Manhattanに近くになり、がっしりした鉄骨の橋を渡り(今思えばQueensBoroughBridge)、巨大なビル群を高速道路から仰いで感激の思いであった。サーフィンの様に高速道路をboundしながらひた走り、しばらくゆくとここは南Bronxと言って黒人が多くて治安の悪い処だと教えてもらった。そこを一跨ぎにしてPelhamParkwayに入り、程なくしてPelhamParkway沿いの丘先生の家に到着した。5・6段の階段を上がった。ようこそと若奥様が迎えてくれた。10cmある毛足の長いカーペットにボアの白色のスリッパで、広い居間、ダイニングと揃い,日本から見たらうらやましい住宅であった。早速お風呂に入れてもらった。16日間の欧州旅行と10時間以上の大西洋渡米の垢を落したら綺麗なbathtubを汚してしまった。Bathtubは次ぎに入る人の為に綺麗にシャワーで流しておかねばいけない位の事は心得ていた。bathtubはガラス戸一枚でもう隣は居室なので、お湯をこぼさない様に気をつけた。Beafsteakをご馳走になった。居間から見る外の橋の名前をご主人が説明をして下さった。あそこに見えるのがThrogsNeckBridge、throgsとは怪獣の事。そういえばDinosaurの首のような恰好をしていた。手前に見えるのがWhiteStoneBridge。ここからは見えないが世界最長の釣り橋VerrazanoNarrowsBridge等色々説明をして下さった。寝る場所は未だ寮がはっきりしないので、レジデントが泊まる場所で2段ベッドの所でと言われて、そんな所で長期の生活が出来るのだろうかと少し不安になった。その夜は2段bedのresidentが泊まる処で夜を明かした。しかし1晩泊まっただけで、丘先生のご尽力で翌日から寮に入る事が出来る様になった。

4. AlbertEinsteinCollegeofMedicine(AECOM)の生活

ブロンクスの青春物語AECOMの生活が始まった。私の研究の場所はUllmannLifeCenterの横にあるForchheimer研究棟の一角にある麻酔科の研究室である。先ず麻酔科研究室の長であるProfessorBaezに挨拶をしてから、秘書を経て麻酔科の主任Orkin教授に挨拶に行った。Orkin教授はJacobi病院の方に居り、部屋迄行くのに歩いて10分はかかる。教授秘書の美しいグロリアさんに案内された。緊張の面持ちで面接したが重々しいが、だみ声で、微小循環の本を読んできたかと尋ねたので、少し読んだと正直に言った。微小循環をどう思うかと聞かれたので、例えば腸管膜の微小循環で体全ての微小循環を代表するとは思わないと答えた様な気がする。後二・三話したら、もうよろしいとの事なので椅子から立ち上がった。一旦部屋を出た後で何か又呼ばれたような気がしたので、又戻って教授の前の椅子に黙って座った所、何も呼ばれなかった様なので、又立って室外に出た。何か言われたような気がした。緊張をすると幻聴も出てくるものであろうか。アメリカに来て始めてLifeScienceと言う言葉を知った。当時の日本ではResearchCenterが流行語であった。医学の研究を生命科学の立場から研究するとの概念は今では当たり前の事であるが1960年代では我々日本人に取っては目新しい分野を示すものであった。

AECOM(AlbertEinsteinCollegeofMedicine)自体が1955年に出来たので私は創立11年目に留学したわけである。正式にはAlbertEinsteinCollegeofMedicine、YeshivaUniversityといい、ブロンクスの青春物語他の学部はManhattanにあり1886年の創立である。そもそも太平洋戦争が終わった時にColumbia大学に居たユダヤ人の医師は一掃されたそうだ。そこでMt.Sinai病院を利用して治療に当たっていたそうだ。そこでユダヤ人だけの医科大学を作ろうと思い立って一念発起して1955年に創立したと聞いている。大学病院も1年前の1965年に完成した新しい医科大学であった。それまでは、その時も今もそうであるが、ブロンクスの青春物語市立病院のJacobiHospitalとVanEttenHospitalそれからすこし離れた所に即ち南BronxにあるLincolnHospitalを傘下病院としていた。JacobiHospitalにはOrkin教授が、VanEttenHospitalは主に心臓を含む胸部外科病院で、麻酔科は丘やす先生がAssociateとして日本人ながら頑張っていた(後に麻酔科教授,名誉教授になる)。

LincolnHospitalも麻酔科主任は日本人であった。UllmannLifeScienceCenterにはMolecularBiologyのHorecker(DNAの構造解析でNobel賞を取ったWatsonやKrickと一緒に仕事をした研究者)、Eagle、Hurwitz始め、生化学のWhite、Gallop、病理学のAngrist、Novikoff等ノーベル賞級のそうそうたる教授がそろっていた。そしてこの12階の研究センターには多くの若き日本人研究者がMolecularBiologyの黎明期に平行して研究をしていた。小さな中庭には物理学でノーベル賞を取ったアインスタインの胸像が噴水と共に飾られていた。あれから何十年経てこの大学から何人のNobel賞受賞者が出たであろうか。

5. Mazer(メーザー)Dormitory

1次的な2段ベッドの部屋から、Mazer寮に入る事が出来た。これは医学生寮である。私は2階の奥から2番目の部屋で広めの7畳ぐらいの部屋であったろうか。一番奥の部屋は隅なのでもう少し広くて学生のブロンクスの青春物語新婚さんが居住していた。寮に移ってロンドンで買った近衛兵のマスコット人形をランプ台に飾って、スイスで買ったハト時計を室内に吊るした。煩い事に昼間1時間毎にポッポ・ポッポと鳴いた。夜中はどうなる事かと心配をしたが、果たせるかな、夜中も1時間置きに鳴き、翌朝目の前の部屋のドア一にDontDisturbの札がぶら下がっていたので、びっくりして私の事だと思って、鳩時計は止めた(本当はドアを開けて掃除に入らなくてよいとの表札)。子供の頃から憧れであった、スイスの鳩時計も一晩でもう吊るすことはなかった。昼食は基礎の研究者が行く食堂で食べた。例えばハムにポテトで1ドル50セント位で、あとパン・各種飲み物は自由で無料であった。沢山とっても2ドル50セントぐらいで安いものであった。私はオレンジジュースと胡瓜のpicklesが大好きであった。インドの留学生Dr.Bashyがパンとpicklesとorangejuiceや牛乳なら毎食ただだよと冗談をいっていた。本当にパンと飲み物だけで済ますならばただで昼食が出来た。

一人者なので夜はJacobi病院の食堂に行った。本当は病院勤務者が食べる所であったが無料なので助かった。大抵毎日が牛肉の薄切りに、グレイビーをかけた肉に、マシュポテトとグリーンピースであった。ブロンクスの青春物語牛の舌の薄切りが出たが気持ちが悪くて食べなかった。毎週金曜日は宗教の関係で魚の日でカレイのフライがいつもの事であった。私は好きであった。新婚の子供づれの奥さんも来て、食べていた。夜はやる事がないのでわからないなりに、広間に行き、テレビを見ていた。私が見ているのを医学生が変えても良いかと聞かれても何といってよいか解からないので、身振りでどうぞといった。寮には風呂がなくて4階にシャワーしかなかった。お湯もぬるくて、寒い中、体を洗うどころか、終わった後服を着る頃は、体がぶるぶる震える程であった。夜の食事もたまには中華料理店に行きたかった。WilliamsBridge道路をPelhamParkwayの方に歩くと左側に中華料理店があった。薄い肌着・厚い肌着、Yシャッツ、チョッキ、スーツ、マフラー、外套を着て短靴で、60cmはある雪の中を20分位かかって行くのである。そこで五目焼きそば等を食べて又30分位かかって戻るのであるが、もう汗びっしょりで、4階に行き、シャワーを浴びて汗を流さないと風邪を引いてしまう。真冬に何回か決行した。シャワーはどうも体に合わないので日本式にゆっくりとバスタブにつかりたくて一度丘先生の家に行き事情を話して、お風呂に入れてもらった。髪の毛もしっかりと洗い、とても気持ちが良かったが、出た垢と髪の毛はバスタブをべっとりと汚すぐらいに大変な量であった。NewYork市内全部が集中暖房方式なので、暖房機のネジをしっかり閉じても暑さで部屋が乾燥をするので閉口した。私は洗濯物を自室の洗面台でしていたので、乾すと一晩で乾燥する程であった。私は喉が弱いので自室にロープを渡して洗濯物を殆どしぼらないで吊るしておいても、翌日にはばりばりに乾燥する。だらだら垂れる雫は床にこぼれ、床のPタイルがめくりあがり、やがてははがれてしまった。それが伝染して、ドアーの方に伝わり、外の廊下まではがれてしまって、最後は寮の管理人に怒られてしまった。

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